東日本大震災 現地法律相談報告

この記事を書いたのは:旭合同法律事務所(名古屋)

2011年4月29日から5月1日にかけて、宮城県内の避難所へ行って法律相談をしてきました。

これは、被災地の法律トラブルを事前に防止するためでもありますが、被災者のニーズの収集を主目的としています。

政府の被災地対策が後手後手に回り、未だ復旧段階にあるにもかかわらず、復興委員会を立ち上げ、増税を言い始める等、私には、政府がメディアと一体となり被災者の窮状から国民の目をそらすことに汲々としているように見えます(震災後50日も経つのに今なおライフラインが復旧しない避難所、おにぎりとパンのみで温かい食事がとれない避難所があることは信じられないことです)。

被災地の実情を的確に把握し、適切な政策提言をすることが重要であると考え、今回、宮城県に東京、近畿6県、愛知県、山形県、山梨県の弁護士約100名超が集結し、一斉相談をしたものです。

愛知県からは10名の弁護士が参加しました。

愛知県は、29日は女川町、30日は石巻市、1日は仙台空港を抱える名取市といずれも壊滅的といえる被害を受けた地域を担当しました。

交通渋滞が激しいとの情報があり前日の28日に松島町あたりに宿泊しないと女川町に辿りつけないとのことで、28日に仙台空港から仙台市へ行き、レンタカーを借りて松島町に入りました。

被災後50日程度が経過しており、仙台市は概ね復旧は済んでいました。地震だけであれば直下型でない限り概ね1カ月程度で復旧は可能であることがここでも実証されました。

しかし、津波の威力は凄まじく、女川町、石巻市の沿岸部は未だ瓦礫の山という状況でようやく道路を確保できてきたという状況で、多くの死亡者を出した名取市の閖上(ゆりあげ)地区は、さすがに仙台市に近いだけに瓦礫の「山」とまではいかないまでも、田に船や車両が放置されていたり、まだまだ復旧には時間がかかるという状況でした。

初日の女川町では6か所の避難所に分かれて入り、私は女川町立第1小学校を1人で担当することとなりました。
両親が未だ行方不明だが、行政が親を「死んだ」ことにするのに抵抗のある方等「こころ」の問題も様々であり、田舎であるため数世帯同居という家庭が多く、「世帯」の数え方等々難しい問題もありそうです(被災者生活再建支援法をはじめ、支援の法律が、個人単位でなく概ね「世帯」単位で支援金を支給することになっています)。

昼食は用意して行ったのですが、避難者と同じものを食べていけと勧められ、ボランティアが作ってくれた味噌汁付きの弁当を頂きました。

喫煙所では、地震後すぐに2隻漁船を曳航して沖合で津波をやり過ごした漁師さんのお話をうかがい、地震がくれば沖合に逃げろというのは漁師の鉄則であることは聴いていたものの、沖合にいても死を覚悟した程今回の津波はすごかったとのことでした(言葉は4割程度しか聞き取れませんでしたが)。

女川町ではようやく53軒の仮設住宅ができ、入居の抽選を終えたそうです。
女川町は約3000世帯あったそうで、津波で3分の1が亡くなり、町外で生活する方がいるとしても、仮設住宅は1500は必要でしょうから、まだまだ避難所生活は続きそうです。

ゆっくり寝たい、風呂にゆっくり入りたいという最低限の要望もかなえられる日はだいぶ先になりそうです。更なる死者を出さないために政府のなすべきことは山積しています。

2日目の石巻市では、日本製紙の社宅に避難されている方々の担当となり、社宅ゆえに皆さんが集まっている場所が無く、相談は2件しかありませんでした。

被害を受けたアパートの家賃の支払義務等賃貸借関係の相談でした。
女川町は持ち家が多かったですが、場所により相談内容も異なります。

何の被害もない状況に見える社宅の坂を50メートルほど下りると廃墟となっており、少しの高さが命運を分ける津波の脅威を目の当たりにしました。

休日にも関わらず社員の皆さんが長靴を履いて防塵マスクを着け、瓦礫の撤去、側溝の確保等の作業をされていました。
3日目の名取市は避難所ではなく名取市役所での相談を担当しました。

行方不明者の安否を探す張り紙があふれ、8か月の赤ちゃんの写真も貼ったままでした。
張り紙の中には名取市職員の「最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を亡くしました。いつまでも二人にとって誇れる父親であり続けられるよう精いっぱい生きます。被災された皆さん、苦しいけど負けないで!」と書いてあった黒のマジックだけの張り紙がありました。

被災者の方々の思いを応援する側がどう受け止めるのか、考えさせられました。

流されたリース車両のリース料金を支払わないといけないか、今まで我慢してきたが避難を機に離婚を考え別居しているが支援金が「世帯主」にいってしまうのを止められないか等、ここでも「世帯」に関する相談がありました。

流された住宅のローン、車・事務機器のリース料等の債務が残ったままでは新たに借金をして住宅を再築したり、新たにリース機器を借りて事務所を再開するための障害となります。

いわゆる「二重ローン」の問題は日弁連でも声明を出したり院内集会を開催したりして国会に立法的解決を要請していますが、「世帯」の問題も今後大きくクローズアップされてくることになりそうです。
個人単位で支援を考えず、何にでも「世帯」がでてくるのは日本特有の問題でしょうが、解決不能とは思われません。

避難所生活は2カ月くらいが限度です。政府は何とか夏ころまでに仮設住宅をと言っていますが、公営住宅でも民宿でもどこでもいいから早くゆっくり寝られる場所を、コミュニティーを壊さないように配慮しつつ用意するという難しい問題をクリアしなければいけません。
夏まで避難所で我慢してくれなどというのはもってのほかです。人が人として普通に生活できる環境を整えたうえで、初めて人間の復興が始まるはずです。

復興には数年数十年の期間がかかると予想されます。原発の問題が復興を更に複雑にしています。
場所により、時期により、被災者の皆さんの要望が変化し続けることがよりハッキリしました。皆がボランティア等で被災地に行けるわけではありませんが、被害にあわなかった我々にできることは、少なくとも忘れないこと、かかわり続けることだとあらためて確信しました。

中部地方は、今回の震災より先に東海・東南海地震が来るといわれてきた地域です。
三陸沖はマグニチュード7台が予想されていましたが、モーメントマグニチュードで9となりました。東海・東南海が8台と予想されています。
これ以上の地震がこないとはもはや誰も否定できないと思います。
東海・東南海が一緒にくれば10万軒の家屋が倒壊し6万人が死傷すると予想されています。
天災は絶対に来ますので、どう対処するか、東日本大震災にどう学ぶかがこの地方に問われていると思います。


この記事を書いたのは:
旭合同法律事務所(名古屋)